seijo salon
チェコのテレビ?ドラマから民主主義を考える
福田 宏 准教授
法学部 法律学科
専門分野:国際関係論、中央ヨーロッパ諸国の政治
福田 宏 准教授
法学部 法律学科
専門分野:国際関係論、中央ヨーロッパ諸国の政治
そもそも、「正常化」時代のチェコスロヴァキア政府は、なぜこのような娯楽作品を制作したのでしょうか? その背景には、テレビに対する政府の危機意識があったと考えられます。1960年代に急速に普及し始めたテレビは1972年の時点において約8割の世帯に普及していました。しかも、このメディアは「プラハの春」で極めて大きな役割を果たしていました。例えば、警官隊が学生の抗議行動を力尽くで鎮圧したことに対し、当局の責任者がカメラの前で謝罪しました。また、知識人がテレビで政府に対して批判的な発言をしたにもかかわらず、その同じ人物が逮捕されることなく定期的に画面に登場し続けました。当初は改革の行方に懐疑的であった人びとも、テレビに呼応して積極的に自分の意見を表明するようになり、結果として改革の大きなうねりを生み出したのです。
しかし、そうであるがゆえに、同国の「正常化」を担うことになった新政権にとっては、この媒体をどう扱うかが重要課題の一つとなりました。政府がプロパガンダに満ちた番組を作ったとしても、国民に歓迎されないことは明らかでした。加えて西ドイツやオーストリアとの国境地域においては、西側のテレビが視聴される恐れもありました。この時期、チェコスロヴァキア政府はソ連から東ドイツの事例を参考にするようアドヴァイスを受けてもいます。東ドイツは、すぐ隣に同じ言語圏の資本主義国家を抱えていただけに、チェコスロヴァキア以上にテレビに対して警戒心を抱いていました。1970年代初頭に同国で密かに行われた調査によれば、東ドイツの番組だけを見ていたのはテレビを所有する世帯の約2割に過ぎず、約6割の世帯が西ドイツのテレビ番組のみ、残り2割が西ドイツと東ドイツ双方の番組を見ていました。この結果を憂慮した東ドイツ政府は、家族がくつろぐ時間帯、すなわち西側で言うプライム?タイムの20時台に「軽い」番組を提供することを決定したのです。チェコスロヴァキアもまた、東ドイツの方針を踏襲する形で娯楽番組、特にテレビ?ドラマを量産していくことになります。
さらに、1989年のいわゆる「東欧革命」とテレビの関係についても興味深い点が挙げられます。東ドイツにおいては、西ベルリンという「飛び地」が存在していたこともあり、国土の大部分において西ドイツのテレビを視聴することが事実上可能でした。西ドイツのテレビ電波が届かなかったのは、ドレスデン周辺や北東部の限られた場所であり、それらの地域は俗に「無知の谷間」と呼ばれていました。とすれば、「無知の谷間」においては西側の「有害な」情報が流入する危険が少なく、抑圧的体制を維持しやすかったのでしょうか。逆に西側の情報を得やすい地域においては、社会主義体制に対する不満が蓄積し、民主化を求める声が高まっていったのでしょうか。ところが最近の研究では、そうした単純な構図ではなかったことが明らかにされつつあります。
例えば、西側で衛星放送が普及し始めた1980年代後半には、東ドイツ各地、とりわけ「無知の谷間」において衛星放送アンテナの設置許可を求める声が高まっていたようです。言うまでもなく当時の東ドイツにおいては、西側テレビの視聴が可能になるという理由で、衛星アンテナの設置は非合法とされていました。しかし、各地方当局からは、アンテナの強制的な除去が治安の不安定化につながるとの報告が寄せられるようになっていました。最終的に東ドイツ政府は、西側テレビの視聴が自国社会の安定化につながるとの認識を示すようになり、1988年8月、個人によるアンテナの設置を事実上認める決定を下しています。ただし、東ドイツ国民が熱心に視聴していたのは、西ドイツの報道ではありませんでした(情報自体はラジオなどからも取得可能でした)。彼らが最も望んでいたのは、プライム?タイムに放映されていたテレビ?ドラマ等の娯楽番組であったと言われています。
「どのような条件下において非民主的体制(権威主義体制)は民主化されうるのか」というテーマは、政治学において最も重要な課題の一つです。その際、情報技術の発達は、民主化が進展するうえで決定的な意味を持つと考えられてきました。1990年代後半にインターネットが普及し始めた時には、中国の体制が変わるのではないかという期待が高まりました。2010年代初頭に「アラブの春」と呼ばれる動きが生じた際には、フェイスブックやツイッターといったSNSが中東の民主化を促すように思われました。しかしながら、非民主的国家は意外にしぶといものです。新しい情報技術が登場したとしても、支配者の側がそれを制御することに成功し、体制保持の道具にしてしまうことがあります。
例えば1960年代においては、テレビが変革のメディアとして多大な影響力を持ちました。世界各地で若者が反乱を起こした1968年、パリの学生が「我々はテレビを通じて世界とつながっている」と言い放ったのは象徴的です。しかし、そうであるからこそ、民主化を封じ込めようとする者は、テレビを無害化し、大衆を飼い慣らそうとしました。その一環として制作されたのが娯楽作品としてのドラマであったと言えます。
現在では、いわゆる後期社会主義時代についての研究が盛んです。チェコスロヴァキアでは「正常化」体制、旧ソ連についてはスターリン批判以降、特にブレジネフ時代がそれにあたります。私がプラハに留学していた1990年代後半においては、1970~80年代の停滞した時代を研究しようなどという雰囲気は全くなく、それをやろうとしても一笑に付されるだけでした(当時の私は19世紀後半のナショナリズムを研究テーマとしていました)。ところが、体制転換から20年を過ぎた頃より、社会主義を直接経験していない世代が、この時代について関心を持ち、主として社会学や人類学の手法を使って研究成果を発表するようになりました。当時のテレビも重要な研究対象の一つと認識されるようになっています。私としても、こうした先行研究の果実を利用させてもらいつつ、民主化という政治学上の課題について考えているところです。現在の世界においては依然として非民主的国家が大半を占めており、しかも、情報技術の進展が必ずしも民主化をもたらすわけではないという現状を考慮すれば、後期社会主義時代におけるテレビは非常に重要な研究対象ではないかと思います。